MESSAGE

うどん「徹麺」
店主 ご挨拶

 
 香川県へ渡り、さぬきうどんを習得し、お世話になった東大阪から始めようと、河内小阪で讃岐うどん店を開きました。


うどん「徹麺」店主 原田 徹

PROFILE

営業マンから
職人へ
!!

● 原田 徹 経歴

1969年02月14日 大阪市で生まれる。
1987年03月 大阪学芸高校(大阪市住吉区)卒業
1987年04月
 香川県さぬき市志度町 在住
1991年03月 徳島文理大学 香川キャンパス
文学部 日本文学科 卒業
 1991年04月
グラフィックアーツ大阪(株)入社(東大阪市菱屋西)
営業部に19年間在籍
2010月09月11日 本場のさぬきうどん徹麺 オープン 

 東大阪の印刷会社へ就職し、営業活動を通じ、未来に光を感じていた頃でした。
 
広告に携わっていると作り手としてのデザイナーは、一際輝いて見えました。創造力の凄さ。ワクワクする企画に胸を躍らせる日々。
 
東大阪の町では、身近に多くの職人に携わり、作り手の技術や奥深さに感銘を受けていました。
 
 ある日、サラリーマン生活の20年間を送り振り返る何気ない時間がありました。
 
東大阪の中小の印刷会社で、風通しのよい社風で充実した営業活動が出来ており、
 
クライアント様に喜んでいただけすようスーツを着て必死に活動してまいりました。
 
 
大変喜ばしいことですが、年齢とともに役職も上がり、印刷の知識も増えていく反面 
 
一人前とまではほど遠く、何か中身が伴っていない半人前な自分がいました。
 
そして未来を見た時 
 
ワクワクする広告の世界でそのまま一生懸命頑張れば、退職までの道は見えてくるかなと思えました。
 退職後。
 
 先の見通せない真っ白で空白の場所しか想像できませんでした。
退職後の方が長くなるかもしれない人生で、何をすれば、何がしたいのか 

 
誰よりも覚えること勉強が苦手ですが、まだまだ学ばないといけない思いが湧いてきました。
 
半人前の自分 
得意ではなかった営業から、
職人の世界へ。


最初から最後まで作り手として自分だけで完成出来る仕事。
・定年は、自分で決められる仕事。
・幼少の頃から、大阪うどんが好きだった。
讃岐うどんを口にした時、衝撃を受け、うどんがもっと好きになった。

ごく身近で親しまれているものに携われる仕事 
一度きりの限られた、わずかな人生。
 
お世話になった方へ、身勝手な思いを伝え、9ヶ月間引き継ぎを行い、
印刷会社を退職。

 

香川県坂出市へ渡り、
手打ちの讃岐うどんを学び、
社会人をスタートした
東大阪市河内小阪へ。

 
 2010年9月11日
本場のさぬきうどん 徹麺 開業

うどん職人原田徹01

 

うどん職人原田徹02

 

おうどんとの出会い

●大阪うどんのデビューは、
母親と商店街の買い物帰りに、
立ち食いうどん店。

1969年、讃岐うどんの代名詞として知られる本州と四国を結ぶ、宇高連絡船の船上で讃岐うどんが販売された。
 
うどんの道を歩むことが運命づけられた彼は、大阪の下町にある商店街で、産声を上げる。
 
幼少の頃から、年越しそばに見向きもせず、うどんを食べた。うどんで人気のきつねや天ぷらを選ばず、飾りけのない、す(かけ)うどんを好んで食べた。
 
透き通ったお出汁に、主張をしない麺が絡み、何ともいえない美味しさが
 
出汁文化の大阪で、
 大阪うどんを満喫 

 
 18年後
 
宇高連絡船は、たくさんの人を乗せ、故郷との橋渡しの役割をしっかりと担う中で、
 1人の少年を待ち続けた。

 
1987年、日本がバブルに沸いている頃 

 
彼は、運命に導かれるかのように、
大阪から宇高連絡船に乗り、
香川県へ降り立った。

 
連絡船は、待ち続けた彼を、
香川県へ無事に送り届け、
大きな役目を終えた事で翌年、
宇高連絡船は廃止の方向へ向かった。

 
高松へ着いた彼は、
1杯のかけうどんを食べた。

 
口に入れて、衝撃が受ける。
 
大阪うどんで味わったことのない、
衝撃。

口の中で、
ワクワクが止まらない 

 
日本がバブルで
湧いていることも知らず、
18歳の彼は、ただただ讃岐うどんを
食べ続けた。

 
看板を見つけると必ず入った。
200軒は越えたのか 
当時は、ガイドブックもなく、
行列もそれほどはなく、
 
静かなうどん巡りでしたが、
うどんを毎日食べられる、
夢のような生活。
 
うどんを食べるだけで、
ワクワクする感覚は、
 
彼の中で、
バブルが起きていた。
 
時を同じくして、これから訪れようとしている、讃岐うどんが全国に知れ渡る、その陰で、美味しさを求め支え続けた人がいました。
 
のちに出会うことになる、
坂出市出身の森井準一氏。
 
日本のトップブランドである
日清製粉(株)へ入社し、
本社配属の予定でしたが、
 
同年、社は、うどんの小麦粉の質を引き上げるために、
讃岐うどんに力を入れて動き出す
タイミングで、
 
入社して間もない、森井準一氏が、讃岐うどんの開発責任者として抜擢された。
 
会社へ出社するのではなく、
当時お取引をしていた、
香川県を代表するチェーン店
「かな泉」サンへ出勤。
 
職人さんと一緒に
讃岐うどんを毎日打ち続けた。
 
 讃岐うどんに関するあらゆる事を習得し、小麦粉の開発者として、
 
オーナーの泉川社長と
開発に乗り出したのは、
数年後のことでした。
 
その当時の讃岐うどんは、打ちたての生麺しかありませんでした。
日持ちのする「半生うどん」を日本で初めて開発されたのが森井準一氏でした。
 
「半生うどん」が出来たことで、讃岐うどんのお持ち帰り、観光に来た時のお土産、贈答品が流通するようになりました。
 
讃岐うどんが全国で食べられるようになり、讃岐うどんのブランド化、今日の讃岐うどん、そして故郷香川県の発展に大きく寄与した方が、
 
日清製粉(株)の森井準一氏ご夫妻でした。
 
平成の時代には、
讃岐うどんに携わる人で、
森井さんを知らない人は、
〝もぐり″だといわれた時期もあり、
うどん県の大切な宝でした 
 
 
 彼は高松で、
初めて讃岐うどんを食べてから、
4年が過ぎ、
1991年に大阪へ戻りました。
 
うどんの世界、、、ではなく、
広告の世界へ進むことに。
 
東大阪の会社に勤め、
社会の厳しさ、繋がり、
広告を通じて、
 
「ことば」の大切さを
感じました。
 
プライベートでは、
大阪うどんを
食べ続けていると、
 
大阪でも讃岐うどんのお店が、
街中にちらほらと増えていきました。
 
 40歳の時、
 
心の奥底に眠っていた、
讃岐うどんを最初に食べた時に感じた
 
あの衝撃が、僕を動かしました。
 
 思い描いた讃岐うどんを
職人として、自分で打ちたい。
 
 半年後、
 
香川県で幅広くご活躍されている高嶋先輩が、森井準一さんを引き合わせてくださいました。
 
森井さんご夫婦と高嶋先輩と、初めて讃岐うどんを一緒に作り食べた時に、
 
讃岐うどんを牽引してこられた
ことが、1杯のおうどんに
込められていました。
 
大阪の商店街で生まれてから、
出汁文化で育ち、 
 
讃岐うどんと出会い、
社会に出て携わってきた道のりが、
 
僕の、おうどんの1つひとつに
込められています。
 
 師の携わった職人の中で、
僕は、一番の末っ子にあたります。
 
覚えることが周囲の方よりも遅く、
不器用さも相まって、
 
お恥ずかしいお話し、
オープンの日から、10日間
「かけうどん」のメニューしか
ご提供出来なかったほどでした。
 
11日目に、1つの卵を割って、
月見うどんができました。。。
 
 一歩一歩ではございますが、
真っ直ぐに、真っ直ぐに向き合い
感じながら、真心を込めて
うどんを打ち続けてまいります。
 
お近くに来られましたら、どうぞお気軽にお立ち寄りくださいませ。
今後とも変わらずご愛顧賜りますようお願い申し上げます。
 

徹麺(てつめん)
原田 徹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

うどん職人原田徹03

一歩一歩、
真っ直ぐに!

●初めて見る業界は、吸収しやすかったり、今までの経験が邪魔をする事もあり、全てが新鮮で楽しく感じ、地に足をつけて歩んでいるんだと思っております。

 香川県坂出市出身の森井準一様よりお教えいただいたおうどんを生涯お作りしてまいります。美味しさを求め、おうどんに真っ直ぐに向き合い歩んでまいります。
 
 お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ。心よりお待ち申し上げております。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

うどん職人原田徹04

 
 

tel:06-6753-7248